京都市交通局 |
2005.3.2掲載
2012.5.6更新
|
日本最初の電気鉄道として開業した京都電気鉄道を引き継いだ京都市電は、昭和30年代前半には路線長は74km、一日の乗降人員が60万人近くあり、市内交通の重要な位置を占めていたようですが、その後、他都市同様に路線の一部廃止、利用者の減少の繰り返しの道をたどりました。
ただ、昭和50年には、既に四条通や烏丸通(一部を除く)といった、メインストリートからは撤退していたものの、政令指定都市では都電荒川線を除き唯一の公営路面電車として活躍していました。
しかし昭和51年には、今出川、丸太町通から路線が無くなり、昭和52年には河原町通、七条通の多くの部分が撤去され、外周線が残りましたが、それも昭和53年に廃止となり、京都電気鉄道の開通から数え83年の歴史を閉じてしまいました。
市電廃止後の昭和56年には地下鉄が開業し、その後延長もされましたが、市電と同じルートは京都駅〜烏丸車庫間で、他の路線はバスが引き継いだ形になっています。一方、京都市ではLRTの導入を検討し、平成17年に出された調査報告書には、外周線や今出川通など市電が走っていたルートもあり、社会実験なども行われましたが、現在は目立った動きはありません。
昭和51年 | 4月 | | 今出川線(銀閣寺道 - 白梅町)、丸太町線(天王町 - 円町)、白川線(銀閣寺道 - 天王町)廃止。日本最大の路面電車の地位を譲渡 |
昭和52年 | 10月 | | 河原町線(七条河原町 - 洛北高校前)、七条線(七条河原町 - 西大路七条)、烏丸線(京都駅前 - 七条烏丸)を廃止 |
昭和53年 | 10月 | | 河原町線(京都駅前 - 七条河原町)、七条線(七条河原町 - 東山七条)、東山線(東福寺 - 高野)、北大路線(高野 - 千本北大路)、西大路線(千本北大路 - 西大路九条)、九条線(西大路九条 - 東福寺)を廃止 |
昭和50年以降に在籍した車両を紹介します。写真欄の番号は、次の「写真」項の番号に対応します。番号をクリックすると拡大写真を見られます。
形 式 | 写 真 | 概 要 |
1600形 | | 600型をワンマン運転可能に改造したもので、昭和51年の今出川線等の廃止時に全車廃車になった。 |
1800型 |
(2),
(4),
(6),
(9),
(13),
(14),
(16),
(17),
(21),
(22),
(23),
(25),
(27),
(28),
(29),
(30),
(31)
| 800型をワンマン化改造したもので、昭和53年の市電全廃時まで活躍した。一部(6両)が阪堺電気軌道に譲渡され、モ251形として使われた。
|
1900型 |
(1),
(3),
(5),
(15),
(18),
(19),
(20),
(24),
(32)
| 900型をワンマン化改造したもので、昭和53年の市電全廃時まで活躍した。その後、全車が広島電鉄に譲渡され1900形として営業している。 |
2000型 |
(11)
| 京都市電初のワンマンカーで、2両連結運転が可能であった。昭和52年の河原町線等の廃止時に全車廃車になった。一部(5両)が伊予鉄道に譲渡されモハ2000形として営業している。
|
2600型 |
(7),
(12)
| 600型を2000型と連結運転可能に、またワンマン運転可能に改造したもので、昭和52年の河原町線等の廃止時に全車廃車になった。 |
|
|
|
|
|
|
|
(1) 1925 四条河原町新京極 S50.9 |
|
(2) 1846 四条河原町新京極 S50.9 |
|
(3) 1926 京都駅前 S52.9 |
|
(4) 1844 七条烏丸 S52.9 |
|
|
|
|
|
|
|
(5) 1929 七条千本付近 S52.9 |
|
(6) 1848 七条壬生通−七条千本 S52.9 |
|
(7) 2618 金閣寺前 S52.9 |
|
(8) ? 洛北高校前? S52.9 |
|
|
|
|
|
|
|
(9) 1867 河原町三条 S52.9 |
|
(10) ? 京阪国道口 S52.9 |
|
(11) 2004 七条大橋付近 S52.9 |
|
(12) 2617 葵橋 S52.9 |
|
|
|
|
|
|
|
(13) 1852 七条大橋 S53.9 |
|
(14) 1822 七条大橋 S53.9 |
|
(15) 1926 七条大橋 S53.9 |
|
(16) 1801 博物館三十三間堂前 S53.9 |
|
|
|
|
|
|
|
(17) 1841 東山七条 S53.9 |
|
(18) 1920 東山七条 S53.9 |
|
(19) 1930 東山七条 S53.9 |
|
(20) 1920 祇園 S53.9 |
|
|
|
|
|
|
|
(21) 1866 東山三条 S53.9 |
|
(22) 1849 東山三条 S53.9 |
|
(23) 1811 東山三条 S53.9 |
|
(24) 1931 百万遍? S53.9 |
|
|
|
|
|
|
|
(25) 1839 叡電前 S53.9 |
|
(26) ? 叡電前 S53.9 |
|
(27) 1802 烏丸車庫 S53.9 |
|
(28) 1817 烏丸車庫 S53.9 |
|
|
|
|
|
|
|
(29) 1820,1801 烏丸車庫前 S53.9 |
|
(30) 1803 ? S53.9 |
|
(31) 1838 ? S53.9 |
|
(32) 1920 烏丸車庫前 S53.9 |
小学校低学年まで大阪に住んでいて、親に連れられ四条河原町に行くことが時々ありました。このとき、四条通を走る市電を見て「京都に市電が似合うな」などと子ども心に思っていたことを思い出します。
一時大阪を離れましたが、中学生になって再び戻り、この年に友人と京都に行きました。元気に活躍する京都市電の姿を久し振りに見るとともに、初めて京都駅から四条河原町新京極まで乗りました。このときの写真が(1)・(2)です。
その後京都に引っ越し、市電の姿をよく見るようになりましたが、乗ることは殆どありませんでした。
そのような中、河原町通や七条通などの路線が廃止になるということで、学校の友人に撮影に誘われ、初めて三脚を据え丸1日写真を撮りました。このときの写真が(3)〜(12)です。それまで車両中心の駅撮りだったので、同じ形式の写真ばかり何枚も撮って仕方ないと思いながら行ったのですが、今となっては貴重な記録で、撮ってよかったと思います。
それから1年後、いよいよ市電が全廃されることになりました。少し前に買ってもらった一眼レフを携え、同じ仲間と廃止直前の日曜日と最終日に写真を撮りに行きました。このときの写真が(17)〜(32)です。
名残を惜しむ多くの人が来ていましたが、車に邪魔されながらの運転や、さよなら電車の簡素な装飾から、この頃の市電の扱いを肌で感じたものでした。
結局は殆ど乗ることも無く、あまり馴染みのないまま廃止になってしまたため、そのときは特別な寂しさを感じることはありませんでした。ただその後、私自身京都市内で進学・就職したため、市電があと5〜10年程度残っていれば、通学・通勤で利用していたと思われ、また路面電車に対する世の扱いも変わってきたので、もしかしたら今も存続したのではないかと考えると、このときの廃止が残念に思われます。
<訪問時の状況>(撮影旅行のページへ)
昭和50年9月 昭和52年9月 昭和53年9月
京都市交通局 市電保存館 on WWW<公式サイト>
京都市交通政策室「新しい公共交通システム」<公式サイト>
京都市電の廃線跡を探る
|