ちょっとむかしの電車のアルバム
H20.8.9UP
 昭和63年3月、4月

 四国と本州が鉄道で結ばれる日がやってきました。
 その一方で、それまで乗ったことが無かった宇高連絡船の運行が終了してしまうため、瀬戸大橋開通の直前、直後に四国に出掛けました。
 また、瀬戸大橋線(本四備讃線)の開業により、JRと連絡するようになった下津井電鉄も訪問しました。
 瀬戸大橋開通関連の博覧会もあったことから、どこへ行っても、お祭りのような賑わいだったように記憶しています。

 まずは、瀬戸大橋開通前に訪問したときの写真です。
 こちらは、同線の開通に併せ登場した213系です。開通までは、岡山〜宇野の快速に使われていました。

(岡山)
 
 瀬戸大橋の開通は4月10日でしたが、児島で開催された瀬戸大橋博の旅客輸送のため茶屋町〜児島間が3月20日に先行開業していました。
 写真は茶屋町か児島と思います。列車には瀬戸大橋博のヘッドマークが付いています。


 
 児島で下車し、ナローゲージで有名な下津井電鉄を訪れました。
 同鉄道は、1972年に茶屋町〜児島間が廃止になり、JR(国鉄)と連絡せず孤島のよう存在でしたが、瀬戸大橋開通により、再びJRと連絡することになりました。
 これに合わせ児島の駅舎を建て替え、オープンデッキをもつ「メリーベル号」2000系を導入するなど、同鉄道の意気込みが感じられました。

(児島)
 
 写真のとおり、下津井電鉄も賑わいが見られました。


 
 海沿いの景色の良い場所を走っていました。
 また瀬戸大橋線の近くを走る区間もあるなど、車窓も変化に富んでいました。

(琴海〜鷲羽山)
 
 クハ24です。塗装が変更になっていましたが、元の塗り分け(次の写真の塗装)の方が、良かったように思えました。


 
 「落書き電車」と言われていたモハ1001です。車両の内外ともいっぱいに落書きされていましたが、あまり趣味の良いものとは思えませんでした。

(下津井)
 
 下津井電鉄に乗車した後、茶屋町まで戻って宇野に行き、宇高連絡線で高松を往復しました。
 乗り納めらしき人も多く、宇高連絡線は甲板まで人で一杯だったように覚えてます。



 ここからは、瀬戸大橋開通後の写真です。
 4月10日の瀬戸大橋開通後すぐに出かけました。
 岡山でJR四国の車両を見かけ、本州と四国がつながったことを実感しました。

(岡山)
 
 岡山からマリンライナーに乗車し、四国に渡りました。
 まさに海の上を走るような様子に感激し、1往復では物足りなく思ったものです。

(高松)
 
 瀬戸大橋線は立派な施設であっただけに、前後の宇野線・予讃線は、ローカル色が強調され、そのコントラストが面白く感じられました。
 写真の121系はもともと赤帯でしたが、民営化後にJR四国のコーポレートカラーに変更されていました。

(高松)
 
 左はJR四国の111系です。JR四国では、瀬戸大橋線の開通に際し、非冷房の若番の111系を導入していました。

(岡山)
 

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