昭和62年5月22日
京都の風景に溶け込んでいた鴨川沿いを走る京阪電車の姿が、三条〜七条の地下化により見られなくなりる日が、いよいよやってきました。
通学・通勤で慣れ親しんだ区間でしたが、写真は殆ど撮っていなかったため、地下化の前々日、出勤前に七条から三条を往復して写真に収めました。
(写真は七条から三条への順に掲載しています)
七条の大阪方面行き駅舎です。
昔は、京都市電と平面交差していましたが、市電は9年前に廃止になっています。
当時の写真はこちらです。
(七条)
地下化工事に伴い、一部の駅でホームの移設等が行われましたが、七条は上下線とも仮駅に切り換えられていました。
(七条)
この頃の特急は、(京都)七条−(大阪)京橋間ノンストップでした。駅撮りが中心の私としては、三条−七条間の地下化により、特急の写真は撮りにくくなると思いながら写しました。
しかしその後、時代が変り中書島や枚方市などが停車駅に加わり、現在は再び駅に停車中の写真をゆっくりと撮れるようになっています。
(七条)
京阪線西側(写真の左側)が鴨川です。元は東側(写真の右側)に疎水が流れていましたが、地下化直前には暗渠になり、その上には建設資材がごろごろ置かれ、雑然としていました。
地下化後、線路跡は道路(川端通り)になり、そこを京阪が走っていたことも忘れ去られようとしています。
(七条)
この頃3000系は、3+3の6連または3+4の7連で活躍中でした。
(七条−五条間)
上と同じ場所で写した2200系更新車です。
(七条−五条間)
鴨川の対岸から写しました。
写真は6000系です。この時は最大7連でしたが、地下化の直後に実施されたダイヤ改正で一部8連になりました。
(七条−五条間)
1810系から編入された1900系です。
(七条−五条間)
(五条)
1900系未更新車です。
(五条)
こちらは1900系更新車です。前面のホロが無くなり、印象が変っていますが、アクセントの前面パンパーは残っています。
(五条)
開放的な光景です。
(五条)
四条を出発する1900系です。
後ろの白い壁の建物の更に後ろに見える瓦屋根が南座です。また左奥の茶色の建物は菊水でいずれも今も健在です。
(四条)
(四条)
四条の下り(淀屋橋行き)は仮ホームになっていました。
(四条)
一方、上り(三条行き)ホームは地下化直前まで変更はありませんでした。
(四条)
(改札口に最も近い)先頭車の一番前の扉を出れば、四条通りまで10秒もかからない便利な駅でした。
(四条)
三条から四条に向かってくる特急です。右の白いシートの奥が旧四条駅のホームでした。
11年前の同じアングルの写真はこちらです。
(四条)
上と同じ地点です。
(四条)
三条の駅舎です。この駅も仮駅舎に変っていました。
(三条)
ついでに写した京津線の写真です。
本線地下化後も京津線の三条ホームはそのまま残り、同線廃止(地下鉄乗り入れ)の平成9年までは同じ姿が続きました。
ただその後、京津線の写真を撮ることは無く、このとき写したこの写真は私にとって貴重な1枚になりました。
(三条)
地下線への切り換えの日(5月24日)、夜中に友人と様子を眺めに行きました。工事をしているのをじっと見ていたのですが、いつの間にか地上と地下の線路がつながり、試運転の電車が通過しました。
一旦家に引き上げ、夜が明けると早速、地下線に乗るべく再び出かけました。
始発からしばらくは、大阪から来る電車は伏見稲荷降り返しになっていたため、同駅で開通を待ち、開通後すぐの電車で地下区間を往復しました。新しさは気持ちが良かったものの、魅力は殆ど感じられませんでした。
写真は、伏見稲荷−淀屋橋のサボを掲げた電車です。
(伏見稲荷)
地下線開通を祝うヘッドマークを付けています。
(中書島)
ついでに写した宇治線です。
(中書島)
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