ちょっとむかしの電車のアルバム
H19.3.11UP
 昭和61年1月

 家に車がなかったため、車の運転免許をとってからしばらく、ペーパードライバーでしたが、この前の年に家で車を買いました。
 この頃、運転にも慣れ、車に乗るのが非常に楽しく、休みのたびに車で出歩いていたようです。
 この日は、鞍馬に行き、その後友人と合流し、嵐山から山道に入り保津峡に行きました。
 特に写真を撮ろうと思って出かけたわけでもなく、ついでに撮った写真ですが、今となれば貴重な記録です。

 京福電鉄鞍馬線です。このすぐ後の4月に、叡山電鉄として独立することになります。
 この頃の同線は、他社の路線との接続が無く離れ小島状態で、青息吐息だったようですが、3年後に京阪が三条から出町柳まで延長されると、大幅に利用客が増え、車両も大きく変ることになります。
 ただ、二軒茶屋を越えたあたりから鞍馬の風景は、今でもこの頃とそれほど大きく変わっておらず、この貴船口など当時のままのように感じます。

(貴船口)
 
 上の電車が、終点の鞍馬で折り返してやってきました。
 このとき、他にも何枚か写していますが、全てこの204です。デナ21形なども活躍中だったので、もう少しねばって撮ればよかったと、今更ながら思います。

(貴船口)
 
 午前に京福の沿線をぶらついた後、大学時代の友人を誘い、山陰線の保津峡駅を覗きに行きました。
 このとき山陰線は、保津川沿いを走っており、京都〜亀岡間は40分以上もかかっていたようです。3年後(1989年)に複線化と同時に別線に移り、この保津峡駅はトンネルとトンネルの間の僅かな空間に設けられています。
 一方、旧線は1991年に観光鉄道として復活し、今でもトロッコ列車が走り、観光客でにぎわっています。

(保津峡)
 
 気動車はキハ47が幅をきかせていたようです。

(保津峡)
 
 気動車を見送って次の列車を待っていると、客連がやって来ました。

(保津峡)
 
 このとき、さすがに旧客は無かったようですが、まだ客車の運用は結構あったようです。
 大手私鉄では、旧性能車が殆ど一線を退いていたような状況でしたが、都会の近くでこのような情景が見られていたとは、やはり国鉄の近代化は遅れていたのですね。

(保津峡)
 
 普段利用している人には、エアコンは無く、時間もかかり大変でしょうが、趣味的にはこの光景はたまりませんね。

(保津峡)
 

(保津峡)
 

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