ちょっとむかしの電車のアルバム
H17.3.2UP
 昭和50年7月

 生まれつき(?)電車好きでしたが、中学に入り同じクラスに鉄道好きの仲間が何人かいたこともあり、興味が急速に高まっていきました。
 ここで紹介するのは、中学1年の1学期の期末試験休みに友人と3人で大阪駅に出かけ、初めて撮った鉄道の写真です。
 この日は九州からの夜行が着く時間帯を狙って阪急で梅田に行き、大阪駅に入りました。ブルトレブームの少し前で、また平日ということもあり、写真を撮っているのは私たちだけだったように記憶しています。10枚程度写真を撮って満足しましたが、家に帰るには早い時間でしたので、その後、弁天町の交通科学館に行きました。
 撮影そのものが事実上初めてでしたが、自分では結構満足できる出来でしたので、その後ハマっていったと思います。

 初めて撮った電車の写真です。カメラは父親のフルオートの35mmカメラです。
 この年の3月に山陽新幹線の岡山〜博多間が開業し、山陽線の昼行優等列車はなくなってしまいましたが、夜行は明星、なは、あかつき、彗星などの特急がそれぞれ1〜数往復、更に阿蘇、くにさき、西海といった急行もありました。
 写真は581系の彗星です。当時581・583系は全車健在で、グリーン車、食堂車(夜行では非営業)も組み込んだフル編成で昼行・夜行の特急に大活躍していました。

 
 この頃、関西〜九州を結ぶ夜行に既に20系は無く、581・583系、24系25形、14系が使用されていました。
 写真は24系25形の明星ですが、B寝台のみのモノクラス編成でした。関西からの夜行は食堂車の営業や個室の連結も無く、東京〜九州の夜行に比べやや物足りなさを感じました。

 優等列車の主軸は既に特急に移行していましたが、このようにヘッドマークまでつけた急行がまだ走っていました。
 当時の様子を調べてみると、グリーン車2両とビュッフェ車を組み込んだ12連のすごい編成で大阪〜富山間(定期運転区間)を1日3往復していたようです。

 新潟〜大阪間の「つるぎ」です。関西〜九州のブルトレはヘッドマークを付けていないことは知っていましたが、「立山」のヘッドマークを見たため、もしかしたら「つるぎ」にはヘッドマークが付いているのではないかと思い前に行きましたが、結果はこのとおりでした。

 クハ481のボンネット型は引退しましたが、この当時ボンネット型が主流でした。
 反対のホームから写真を撮っておれば、JNR(国鉄)マークをつけたボンネットの特徴をよく捉えることができたのにと残念に思えます。
 この頃、大阪〜金沢・富山は「雷鳥」、大阪〜新潟は「北越」と分けられいていました。3年後に大阪〜新潟の「北越」は「雷鳥」吸収されることになります。

 キハ82の「まつかぜ」です。当時「まつかぜ」は2往復走っており、博多行きは13連だったようです。
 横を153系が走っていますが、新快速か急行比叡と思われます。

 当時から「しなの」1往復が大阪まで乗り入れていました。この年の3月に気動車から電車になったようですが、下膨れですっきりした屋根の381系は、新鮮に映りました。
 横に写っている113系は東海道線快速です。この頃グリーン車を組み込んでいました。

 EF58は、当時九州からのブルトレを牽引するなど電気機関車の中核として活躍していました。これは何の列車か記録はありませんが、「銀河」かもしれません。
 もしそうだとすると、旧特急用の座席客車(スハ44、スハフ43)が連結されていたはずですので、それらの写真を撮っていなかったのが残念です。

top page
inserted by FC2 system