ちょっとむかしの電車のアルバム(気動車(普通・急行型))

気動車(普通・急行型)

昭和52年4月

 篠栗線・筑豊線に投入されていたキハ66・67の姿も見られました。

(下関)


昭和57年7月

 大糸線は北小谷で下車し、降り返しました。
 北小谷はそこそこ大きな駅と勝手に思っていましたが、非常にのどかな駅で、降り返しの列車待ちの間、目の前に流れる姫川の雄大な景色をボーッと眺めて過ごしました。

(北小谷)


昭和58年初夏

 片町線のキハ35です。前面強化したキハ35はこの頃ハバをきかせていました。何の魅力も感じない車両でしたが、今写真を見ると非常に懐かしく感じます。
 撮影場所は不明ですが、その後電化され、「学研都市線」なる洒落た愛称が付き東西線に向かう207系が走る今の片町線からは想像できない光景です。

 


昭和58年12月

 ついでに撮った国鉄奈良線です。このころキハ35が毎時1〜2本走る全くのローカルな路線でした。しかしその後、本数増加、電化、快速運転開始、駅設置、複線化と飛躍的に便利になり、京阪宇治線の強力なライバルになって行きます。

(宇治付近)
 


昭和59年9月

 宇治駅の様子ですが、写真のとおり既に架線柱が立ちホームの嵩上げ工事もなされています。
 この宇治駅はその後宇治〜新田複線化の際に大改造されています。

(宇治)
 
 この頃、普通は京都−奈良間の運転が主でしたが、一部桜井線まで乗り入れているものもあったように思います。
 写真は奈良駅です。横の103系は関西線の運用に就いていたものです。

(奈良)
 


昭和60年7月6日・7日

 国鉄明知線の恵那です。同線は4ヶ月後には第3セクター明智鉄道に転換されました。
 このキハ52で明知線往復後、恵那で泊まりました。

(恵那)
 


昭和61年1月

 午前に京福の沿線をぶらついた後、大学時代の友人を誘い、山陰線の保津峡駅を覗きに行きました。
 このとき山陰線は、保津川沿いを走っており、京都〜亀岡間は40分以上もかかっていたようです。3年後(1989年)に複線化と同時に別線に移り、この保津峡駅はトンネルとトンネルの間の僅かな空間に設けられています。
 一方、旧線は1991年に観光鉄道として復活し、今でもトロッコ列車が走り、観光客でにぎわっています。

(保津峡)
 
 気動車はキハ47が幅をきかせていたようです。

(保津峡)
 


昭和61年4月5日

 播但線の姫路−飾磨港は、朝夕の2往復でした。

(飾磨港)
 
 確かに飾磨港です。

(飾磨港)
 


昭和61年8月1日

 越美北線の気動車(キハ52)です。
 「越美北線の起点は福井南で、そこを通過するときに未乗区間に乗る際のゾクゾクを感じるべき」という宮脇俊三氏の著書を思い出しながらこの列車に乗り、岩がむき出しの涼しいトンネルを通り、終点の九頭竜湖に向かいました。
 終点の九頭竜湖からは、越美南線の美濃白鳥までバスで向かいました。越美北線と南線が結ばれていたらどこを通っていたのかと思いを馳せ、ロックフィルのダムを眺めながらのバス旅でした。

(福井)
 
 バスで越美南線の美濃白鳥に着き、同線を完乗すべく終点北濃に向かい、降り返し美濃太田まで乗りました。長良川に沿ってのんびり走る路線でした。
 同線はこの4ヶ月後に第3セクターに転換されてしまいましたが、美濃太田ではこのための新しいホームが作られていました。(写真右)

(美濃太田)
 


昭和61年8月14〜15日

 三次から三江線で江津へ向かいました。
 山の中を走る平凡な線でしたが、高架の途中にホームがある宇都井が印象に残っています。

(三次?)
 
 米子に泊まり、2日目は、まず伯備線で新見に行き、そこから芸備線を塩町まで乗りました。
 これは芸備線のとある駅です。


 
 備後落合からは、木次線に乗ります。同線には旧塗装のキハ52がいると聞いていましたが、ラッキーなことにそれに乗ることができました。

(備後落合)
 
 同じく備後落合です。山間の静かな駅ですが、3つの列車が顔を揃えたにぎやかな場面です。

(備後落合)
 
 スイッチバックの駅、出雲坂根で急行と交換です。なつかしい汽車旅の雰囲気を味わいました。

(出雲坂根)
 
 このキハ52がよほど気に入ったのか、更に1枚撮っています。
 


昭和61年8月23日

 普通を乗り継ぎ岡山にたどり着いた後、吉備線に乗りました。
 のどかな田園風景の中を走る路線という印象が残っていますが、最近ではLRT化の話も出ているようです。

(総社)
 
 新見→津山は、これに乗車しました。
 津山では乗り換え時間にまちをちょっとだけぶらついたように思います。

(津山?)
 
 キハ65が目的では無く、ヘッドマークが珍しく写したものでしたが、今写真を整理していると、キハ65自体このとき初めて写したもので、私にとって貴重な1枚です。

(津山)
 


昭和62年8月14日

 石巻からは、石巻線終点の女川まで乗車しました。海沿いを走るのどかな路線でした。

(女川)
 
 女川から折り返して前谷地まで行き、気仙沼線に乗車しました。
 同線は国鉄線として開通した最終グループです。宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」本で読んだ開業日の様子を思い描きながら乗りました。


 
 気仙沼まで行ったところで、日が傾いてしまいました。
 その後は大船渡線で一ノ関に出て仙台に至り、この日は終了しました。

(気仙沼)
 


平成2年8月

 山陰線を通って鳥取に着くと、都会の駅のように思えました。
 鳥取では「エーデル」を見かけました。架線が無いため非常にすっきりしています。

(鳥取)
 


平成3年6月23日

 キハ66です。普通系でありながら転換クロスシートで登場時は驚いたものです。

(博多)
 


平成3年8月23日

 鳴門線が分岐する池谷です。高徳線と鳴門線がY字に分岐したところにそれぞれのホームがある駅で、駅本屋は高徳線と鳴門線に挟まれるように配置されています。
 これは鳴門線のホームです。

(池谷)
 
 鳴門まで乗車し、そのまま折り返しました。

(鳴門)
 


平成3年8月24日

 キハ54です。車内はロングシートで、あまり乗りたいと思う車両ではありませんでした。この旅行では乗車しなかったように思います。

(阿波池田)
 
 窪川から乗車したキハ32です。トイレなしのロングシート車です。
 予土線は四万十川沿いを走り、沈下橋なども見れ面白かったのですが、ロングシート2時間は長く感じました。

(窪川)
 


平成3年8月25日

 乗車した旧線経由の列車と思います。

(伊予大洲?)
 


平成4年夏

 まずは、土讃線に乗り行きました。スイッチバックのある坪尻駅の記憶ははっきり残っているのですが、その先、佃まで行ったことが思い出せません。ただ阿波池田の写真があるので、乗車したのは確かなようです。
 締まらないことですが、これでJR四国は全線完乗です。

(阿波池田)
 


平成4年11月1日

 弘前で青森行きの列車を待ってるときに写したものと思います

(弘前?)
 
 弘前から青森までは左のキハ58の快速に乗車しました。結構な乗車率でした。

(青森)
 


平成4年11月3日

 結婚式出席の翌日、旅行最終日です。この日はまず、JRで函館から大沼公園までを往復しました。


 
 大沼公園駅では駅前に出ただけで、観光する間もなく函館に引き返しました。わずかな区間でしたが、北海道のJRの感じを味わいました。

(大沼公園?)
 


平成5年3月28日

 次は三角線に乗車しました。
 子どもの頃、叔父がよく天草に海水浴に連れていってくれ、このとき車から線路を眺めていましたが、乗車は初めてでした。

(熊本)
 
 終点三角で休むキハ31です。小窓が並ぶスタイルと転換クロスシートが気に入っています。
 この後すぐ熊本に折り返し、博多に戻って泊まりました。翌日は午前に、香椎線の香椎〜西戸崎を乗車したように思います。
 午後に本来の用事を済ませ、新幹線で京都に戻りました。

(三角)
 


平成30年2月

 気動車はほとんど見られません。

(小倉)
 

 
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